ベトナム見聞記 Part3
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ベトナム見聞記−11 同世代について・・・・

ベトナム戦争については、8回目のところで簡単に触れたが、今回はもう少し詳しく語ってみたい。どうしても私たちの世代は、ベトナムというと「ベトナム戦争」を思い出させるのである。


第2次世界大戦後、ベトナムは北緯17度線を境にして、北ベトナムと南ベトナムに分かれていた。北ベトナムは旧ソ連や中国を中心とした共産圏から支援を受け、一方、南ベトナムはアメリカを中心とした資本主義圏から支援を受けていた。つまり、共産圏対資本主義圏との代理戦争であった。


当時、ベトナムは第2次インドシナ戦争の真っ只中にあった。そして、このベトナムが共産化すれば東南アジアはドミノ倒し(日本で言う「将棋倒し」)のように、次々と共産化することは避けられないといった「ドミノ理論」をアメリカは戦争の理論付けとした。


アメリカは、10数年に及ぶこのベトナム戦争に20兆円(現在のレート)に近い巨費を投じた。しかし、1975年4月には北ベトナムと南ベトナム民族解放戦線(通称、ベトコン)によって、サイゴン(現ホーチミン市)は陥落した。アメリカはベトナムから撤退し、ベトナム戦争の終結はした。そして、ベトナム戦争後に生まれた世代が30代に差しかかろうとしている。この事については、すでに触れたので、ここでは語らない。


私が関心を持っているのは、ベトナム戦争当時従軍し、アメリカと戦った世代である。日本では、「ベトナム反戦闘争」が盛んで、国際反戦デー、王子野戦病院反対闘争、ベ平連の各集会等々の「若者の反乱」が席巻していた。しかし、ベトナムの若者は深刻な戦争に直面していたのである。当然、アメリカの若者も同様であったに違いない。


ある夕食の時、私と同じぐらい年代の人にある事を尋ねてみた。あるは事とは、今までアメリカに戦争で勝った国は、ベトナムしか知らない。なぜ小国ベトナムが大国アメリカに勝てたのか?不思議でならなかったからである。


そこで、単刀直入に「なぜベトナムはアメリカに勝ったのですか?」と聞いてみた。すると一言「忍耐です」と言ったきり、あとは何も語らなかった。戦争で犠牲になった家族、友人、知人など多くの人がいるのだろう。そのため、この世代の人はベトナム戦争の事をあまり語りたくないのだろう、と私も察したので、話題を切り替えた。なお、ベトナム戦争でのベトナムの人々の犠牲者は、200万人を超えていると言われている。かつ、今でも枯葉剤などによる戦争の後遺症はあとを絶たない。戦争はいけない・・・・


v11_1    ベトナムの同世代の人


v11_2    町中をいくベトナムの人々


V11_3    父と娘?

◆ベトナム見聞記−12 交通ルールについて・・・・

ハノイに3日間も滞在していると、滅茶苦茶だと思っていた交通ルールにもだんだん慣れてくる。日本では無秩序のように感じられる交通ルールは、ベトナムではベトナムのルールが存在しているようである。


中央線ギリギリまで対向車が迫ってくるが、対向車線をはみ出すことは滅多にない。例えはみ出したとしても、対向車とは一定の距離があり、それなりに安全が確認されているのだろう。


絶え間ないクランクションの音にもだいぶ慣れてきた。初めはクランクションを鳴らすことによって、「そこをどけよ!」とか「もっとスピードをあげろよ!」などと相手に注意を促しているものと思っていたが、そうではなかった。日本ではこれでよく喧嘩になることが多いが、ベトナムではこれによる争いはほとんど見られない。自分が目にしたところでは全くなかった。


むしろ、クランクションは「自分のバイクがこれから通るよ!」とか「これからそっちへ進むよ!」とかの意味を持っているらしい。決して相手を威嚇するためにクランクションを鳴らしているのでは無いようである。


ベトナム(ハノイ市)では信号機が少ないことは、すでに記したとおりである。だが、道路を横断する時は、大変である。右や左から絶え間なくバイクや車がやってくる。ずっと待っていると永遠に渡れない。どこかで勇気を出して、突っ切るしかない。後で聞いた話だが、道路を横断する時は、相手を見ない方が良いらしい。何故かというと、相手を見るとバイクや車が来ているのが分かっていると思い、歩行者を避けてくれないからだそうである。


と言うことから、ただ前を見て一直線に道路を横断するのが、良いのだそうだ。でもやはり、道路の横断には勇気がいるし、怖い・・・・・


v12-1  交差点


v12-2  ハノイの信号機


v12-3  道路を横断する人

◆ベトナム見聞記−13 ハノイの商店街・・・・

ベトナムにいたのは結構短い時間だったが、ハノイ市内の商店街を見て回った。いろいろなお店に行くことができたが、そこで面白いなと感じたことが数多くあった。ただ、ベトナムへはショッピングツアーで行った訳ではないので、値段のことやブランド品などについては詳しくは分からない。


ハノイ市内は旧市街であっても区画がきっちりされている。その区画の中に同種類のものを販売する店がひしめいているといった感じである。例えば、衣料品であれば大通り沿い、または、通りを挟んで同じ店が並んでいる。電気街であれば家電を販売する店がその一帯を占めているのである。


私たちは、まず「日本のおみやげを買おう」と言うことで、何にするか検討した結果、「ベトナムのお茶(緑茶)にしようか」と言うことになった。早速、お茶などを売っている店が並んでいる一帯にタクシーをとばした。ベトナムでも2店しか売っていない(?)と言われているお茶を入手することができた。


次に、トラさんに「パソコンショップに行きたい」と言ったところ、カシオの電卓などを売っている所に連れて行ってくれた。本当はパソコンを売っている所に行きたかったのだが、トラさんになかなか通じない。ノートに書いたり、ジェスチャーで伝えたのだが、なかなか分かってくれない。最後に、「コンピュータショップにいきたい」と言ったところ、トラさんは「OK,OK」と言い、やっと分かってくれた。私たちは、ここでやっと気がついた。「パソコンショップ」では意味が通じなくて、「コンピュータショップ」だと意味が通じることを・・・


すでに述べたように、ハノイでは区画毎に同じ商店が並んでいる。そのため、目的の場所に行くには、タクシーで行くしかない。日本で言えば、新宿から秋葉原に行くようなものである。やっとの事で、パソコンショップに辿り着き、ベトナムの「パソコン事情」を垣間見ることができた。


v13-1  ハノイの商店街


v13-2  お茶を買ったお店


v13-3  ハノイの電気街

◆ベトナム見聞記−14 ハノイの人々・・・・

今回のベトナム訪問も終わりに近づいてきた。短い期間であったが、多くのベトナムの人に接する事ができ、良い経験をさせていただいた。また、この間毎日夕食は、ベトナムの人と一緒であった。


その中で感じたことは、ほとんどの人が穏和であると言うことである。話し方もゆっくりとした口調に聞こえて、穏和な感じを与えていた。隣国は大国中国であるが、中国の言葉は早口で、激しい口調に聞こえてならない。


そこで、私たち日本人同士でこの事について話し合った。「日本で言えば、中国の言葉は関西弁で、ベトナムの言葉は岡山弁かな」と言うことで話はまとまった。どちらの言葉が良くて、どちらの言葉が悪いというのではない。ただ、雰囲気として私たちはそのように感じただけである。


夜もたびたびハノイの街を歩き回った。歩き回ったというより、タクシーを乗り回したと言った方が良いかも知れない。夜の9時頃でも子供が家の回りで遊んだりしているが、金品をねだったり、物を売りつけたりする場面には一度も遭遇しなかった。声をかけると愛想良く振り返ったりする。何とピュアな子供たちだろうと感じたのを今でも思い出す。


そう言えば、一度だけ「絵はがき」を買わされそうになった。2日目の朝、ホテルの近くを散歩していると、「絵はがき」を持った男の人が近づいてきて、日本語で「いりませんか?」と言ってきた。私は「結構です」と言ったら、すぐに立ち去った。全く強引さは感じられなかった。これもベトナムの人の性格なのかなと思った。


ただ、最近の経済開放政策である「ドイモイ政策」によって、拝金主義に陥っている側面も指摘されている。特に、商業都市であるホーチミン市はその傾向が強いらしい。今後もベトナムの人々のピュアで穏和な性格が無くならないことを念じて已まない。


v14-1  懐かしい風景


v14-2  頭の上は何?



v14-3  何を運んでるのかな?

◆ベトナム見聞記−15 終わりに・・・・

4日間という短い滞在であったが、それにしてもあっという間に過ぎてしまった。ハノイ市という限られた地域に過ぎなかったが、ベトナムの人々と接し、周辺の景色を眺めたりすることによって、ベトナムについて垣間見ることができたと思う。本当の意味でベトナムを知った訳ではないが、知っていくきっかけになった事だけは事実である。


さて、帰りのフライトは、6月4日の現地時間23時55分である。当日は体調を崩したため、午前中はホテルで休んでいた。屹度暑さとベトナムの人との交流による緊張感から疲れが出たのであろう。それでも午後には大分回復したので、ホテルの近くのレストランで食事をすることとなった。もちろん、ベトナムの人も交えてである。


今回のベトナム滞在について色々と聞かれたが、その内容は忘れてしまった。ただ、「この短い期間でしたが、ベトナムの事が知れて楽しかった」と言ったような気がする。しかし、ベトナムの人から「ハノイを見ただけだと、本当のベトナムを知った事にはならないよ。ベトナムは農村人口が9割近くを占めているので、その農村を見ないとベトナムをトータルに理解できないよ」と言われた。それを聞いて、今度来た時は、沢木耕太郎ではないが、ホーチミン市から「1号線を北上」しようかと思った。


そろそろ出発の時間が近づいてきたので、レストランを後にして、ノイバイ国際空港に向かった。夜の9時を過ぎていたが、空港に向かう途中は若いカップルで溢れていた。街が若い人で一杯になるのは、活気があって良い。「若い」というのは良いもんだなとつくづく思った。


帰りの飛行機の中ではぐっすり眠ってしまい、あっという間に成田空港に着いた。日本時間で朝の7時頃である。空港からはリムジンバスで越谷市の自宅に帰った。1時間ちょっと乗っただけだが、バス代は3,000円であった。嗚呼、なんと日本は高いことか・・・・


v15-1  ハノイの郊外


v15-2  ハノイの市街





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